昭和57年4月13日 朝のご理解 入力者松本正宏
御理解第三十二節「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。」
先日ある教会での機関紙を送って頂いて、ある、まあ偉い先生のお説教をそのまま、活字にしてある、ところがございました。金光大神を頂くという講題でお話をなさっておられます。それを、聞かせて頂いたのですけれども、金光大神を頂くという事になれば、金光大神の信心を頂くという事に、なりましょう。そしたら、お徳を受け、おかげを受けることが出切ると思うのですけれども、素晴らしい表現でまあ金光大神を語っておられるのですけれども、どこまでも私共あんなに、上手に表現しきりませんけれども、その表現の仕方が素晴らしい。けれども、これはどこまでも金光教者の常識だなあと申しました事です。ですから、金光大神の信心がまあ、こういうまあ信心でこういう得意性を持っておるという説明がある、見事にまあお話をしてございましたが、ここの修行生の方達もお互いがなら知ってはおるけれども、まあ言葉に表して表現する事は出来ない。いっぺん皆それぞれ読んでおくようにというて申しました事でございますがね、頂くのではなくて分かるという事だけではおかげにならんのです。ね。頂くという事になる時、初めてそれは金光大神のお徳までも頂く事になるのです。勿論おかげも頂くのです。
昨日は、美登里会でございましたから、皆さんのお話をまあ聞かせて頂きました中に、関さんの発表があっておりました。今、あの、(?)茶屋の方の関病院というのが、もう、長い間閉めてありまして、娘さんが久留米のほうへ出られて、おかげで繁盛いたしております。こちらでは、だから御婆ちゃんが一人でおっておられたのですけれども、もう設備も出来ておるし勿体無いからというて、職人さんを一人雇うて、(?)茶屋関病室ですか、医院ですか、まあ開いておられて、段々おかげを頂いてこの頃、また、お得意さんも出来て、おかげを頂いておられます。ところがその、職人さんが、もういっぺん結婚した事があるのですけれども、その、姑親との折り合いが悪くて、出てきとりなさる。そして、まあ関さんのところに勤めておられるのですが、たまたまその、職人さんに結婚の話があった。これは関さんはもう、あの職人さんのことをしんから願われるのです。
ね。ですから、その時も御神意を頂いて、御神意がよかならば、また、その方が幸せになられる方だからお繰り合わせを願うておられました。久留米の娘さんが、そげな事、そげなあなた、せっかくよか職人さんが来てもらうておるとに、(?)あんたはどげんするですかち言うて、心配されたという事ですが、いわゆる本当に、あの、そういくらよか職人さんじゃからというて、その、職人さんの幸せまでも失ってしまう事がいけない。信心させて頂いておればその幸せを祈らせてもらう。後はまた神様が立ち行くようにしてくださるがとまあ言うて御願いしておりましたら、先だってから見合いをしてまあ、双方とも意向をもらおうという事になられた。ところが、後の職人さんのことをまた御願いをしておられましたが、最近その、今度のご主人になられる方がね、せっかくそのどっか北野、近所らしいのですよね。電車でちょっと帰るところなんですよ。今度行かれるところは。そんならね、そのおばさんがこう、一人でそうおんなさるのならば、その、まあ、結婚してもあそこで働くようにさせて頂いたらどうか、そのご主人のおばあちゃんも、そんなに喜んで頂いておるならばという風に主治医になる方が、言うてくれますという所までのお話をなされました。どうでしょうかね。自分の中心にして考えたらですね、腹、自分方、この人がおったら困るという人が、外にまあ引き抜かれたり、または、事情で止められることになったら、どうぞ、そのうちに働いてもらいたいというのですけれどもそこのところをちょっと超えておられる。考え方が。いうなら御理念に基づく考え方なのです。商売をする。窮屈になる。もうそれこそどうにもこうにもがんじがらめ。と言う人達が、そのかんじがらめにくくられておるような窮屈のかからない、抜け出ろう、抜け出ろう。何か他に手立てが無いものかと外に向かって一生懸命頑張ったところでおかげにはならんで。がんじがらめにくくられておるならばそこでジッと、どうしたら繁盛するだろうかではなくてそれこそ、昨日若先生の月並祭のお説教を聞かせて頂いたのですけれども、それこそ、「働けど働けど我が暮らし楽にならざる」啄木はそう詠ったけれども、信心させてもらうものはそれこそ、働けど、働けど、ね、我が暮らし楽にならざる。ジッと心を見るという風に言っておられます。その時にね、手立てのことを考えたんでは絶対におかげにならんです。それはがんじがらめに括られておるそれをこうやって、引っ張ってそこから逃れようとしておるのですからますます苦しいことばかりです。それよりも自分自身のじっと心を見つめさせて頂いて、なるほど信心しておるけれどもこんな浅い考え方、こんなにいうならおかげの頂けない心の状態ではおかげが頂けるはずはないとまず分かることにじっと手を見るという生き方にならなければ駄目です。
それはまあ、関さんの場合は一人の職人さんのこと。といういうならば、ささいな事のようですけれども関さんにとってはもう自分のその、お商売を任せておられる方なんですからね、それでも、今あなたに出てもらうとじゃ困りますばのと、いうちゃないです。あなたの幸せならば、私がお参りしよる所の金光様にお尋ねをしてやろう。そして、御神意がよかならば、どうか、成就しますようにというて、それを祈り願っておられる。なるほど、出られたら困るのだけれども、いうならそれこそ、御理念を持って、生活の中にそれが生き生きとしておる時にです、ね、もう、あの、次のおかげが頂けれるという感じがあるでしょう。安心して喜んでその人の幸せを願うて、私はその商売させてもろうてもですね、もう従業員のことを本気で願う主人にならなければね、その人たちの立ち行きのことまで一生懸命願ってやれる人でなからなければ繁盛はないです。ただ、むごう言うてから(?)ばっかり与えてただ、むごう言うてから働かせようという手立てばっかり考えたっちゃだめです。ね。(?)その信心が本当に親身になって従業員の一人一人のことを祈り願うてやる、ね、あんたのことば願うていいよるばのという事もいらん。ね。それこそ願うていきよりゃ神様がみてござるですから、そういう店は必ず繁盛しますです。ね。それこそ、これは女が菜園にでて天地を拝む心。それを煮て食する時に神様頂きますという心。ね。先だって、今私がある先生の金光大神を頂くというこれは、頂くという講題ではなくて、これは金光大神の信心を頂いておるものの常識、金光大神の信奉者の常識という事なんだけれども、常識的にどんなに素晴らしく表現しても、どんなに素晴らしく分かったところで分かっただけでは合楽理念がどんなに分かったところでそれを実行しなかったらおかげにはならんです。ね。
ね。合楽理念を覚えただけではマスターしただけではおかげにならんです。いわゆるどんな場合であっても御理念に基づく生き方を生活の上に頂き、そしてそれを表さなければ。ね。今日の正奉仕は誰かね。昨日、この手紙が参りました。読んでもらおうか私読めませんから。ちょっと読んでみてください。少しばかりですから。福山の御信者さん。
「坂本しげこ55歳。
先月も健康で商売も順調で売上も上がりまして本当に有り難うございます。
合楽教会にお参りさせて頂くようになりましてからは、売上がぐんぐん良くなりました。これも親先生のおかげと皆喜んでおります。今後とも宜しく御願いいたします。
坂本邦彦29歳。
おかげを頂きまして結婚話がまとまりました。結婚式は秋になります。どうか無事に結婚式が出来ますよう、親先生宜しく御願いします。本当に親先生のおかげでよい嫁さんが来て頂く事になり、嬉しくございます。あつく御礼申し上げます。
坂本千代25歳
この間は盲腸炎の手術の御届けをさせて頂きましたところ翌朝には全然腹も痛くないし、検査(国立病院)にして頂きましても手術する必要なしという事で、おかげを頂きました。本当に親先生のおかげで直して頂きました。本当にありがとうございまいた。千代にも息子同様幸せなおかげを下さいまして、御願いいたします。
田中やすじ5歳
孫が寝小便して困っております。毎晩のようにしております。どうかおかげやってくださいませ。」
昨日この手紙をもらいましてお礼を申させてもらいよりましたら、こう握っておるものをぱっとこう離したところを頂いたのです。今まである教会で熱心に信心をしておられた。いわゆる、信心が分かっておられた。ところが分かっただけではおかげにならなかった。そしていうならば合楽の理念がまだ分かっておられるか分からんけれども、その潔く離した所に、今言うように願ばおかげおかげというようにおかげを受けておられる訳ですよね。ですから自分の中に持っておるもの、心の中に離すものを離しきらんでいつまで経ってもおかげにならんです。まそれをまあいうなら我情我欲を離すと言うことになればもっとお徳を受けるという事になりましょうけれども、自分の観念のようなものを持っていうなら縛られておるものが、いうならば、少しでも楽なほうに行こうと思うて一生懸命頑張ったところできついばっかりです。それを解いてもらえる為にはまず、じっと、手をみるのではなくて、ジッと自分の心を見つめさせてもらう。そこへ、御理念を紐解かせてもらう、とはあここはここを離さなければいけないという事を分かってそれを断行するという事。それを生活の上にも、商売の上にも表すという事。それが私は大事だとこう思う。このご理解はこれは知っただけならばほう金光様の信心ちいやなるほど女が菜園に出て天地を拝むような心になり、ね、それを煮て食する時に、頂きますという心あらばあたる事なしと仰っておられますが、これは野菜とか、食べる時だけの事ではない。一切の事柄がです、天地の拝み頂きますというどういう場合であっても、頂きますという心がいわゆる成り行きをいよいよ尊ぶとか大事にするという事はここのところを言うておられるのです。頂きますという心にならずに、別のものば頂こう、下さろうとするものじゃないものを無理に頂こうとするというところにです、ね、いわば無理な事になってくるように思うのです。
金光教の常識も勿論出来なければなりません。金光教とはと聞かれたら、今私が申しましたような、ある先生のお話じゃないですけれども、せっかくご信心を頂くなら金光教のことをこの位は説明させて頂けれるようなやっぱ、勉強しておらなければならんなあと思います。ね。だけではなくて、それを自分が頂くという事になると、それは通り一遍のただ説明にしかならないのであって、おかげを受けることにもまた徳を受けることにも繋がらないです。とにかく感謝の心を持ってすればと言う程度の事では出来んのです。天地を拝みすべてのことを頂きますというこれは、ね、女が菜園に出た時だけではありません。私共の日常生活の中にそういう信心が本当に頂けてそれこそどういう事でも頂きますという心あらばです。いやな問題も苦い甘いも言わずにです頂きますという心です。その何故頂かなければならないか。しかも、またそれを頂く、苦いものは苦いもの、辛いものには辛いものの味付けがいうなら方法を合楽理念は解くと思います。その気になって頂くと、頂けれるはずのものでも無いものがそれこそ珍味として頂けれるような味わいも分かってくるのです。ね。天地を拝む心。神様全ての事を頂きますという心あらばと仰るその、頂き方をそこにはです、例えば関さんの場合なんかはその、職人さんの(?)なんかこうすんなりとまあ信心の無い娘がみたらほらあんたおばあちゃんそげな事しとらんとに、あなた、どげんなるとというところですけれどもそこを、御理念を、御理念を持って頂くとです、自分の幸せばっかり、自分の都合ばっかりうちは出来んその人も幸せになってもらわねばならんというのがお取次にもなり、また、それを心配してあげれるという事になってくる。そこから開ける道が本当のおかげの道だと私は思うですね。
どうぞ
今日あの、今、(・・・・)あったんですけれども、金光大神の信心というのは世界の良心と言われるですね。確かに例えば、合楽で言われる、和賀心時代を世界にという事はね、これは、そう人類の良心になったら世界は平和に絶対なりますよね。金光大神の信心は世界の良心とはあ、素晴らしいことを言われるなあと思うて、御説教の中にそういう言葉を使っておられました。金光大神の良心、いうならば、御理念を良心とする、生き方を一つ頂かなければいけんですね。
どうぞ